since 12/25.2008.

 45年ぶりの同窓会


     ≪小中学校9年間をともに過ごした60名の青春(写真集)≫
     ≪昭和戦後歌謡史とともに(団塊の青春)≫
     ≪故郷の医療を支えていただいた老先生の引退≫
      (お節介ですが、画面を125%~150%ぐらいに拡大してご覧いただく方がよりbetterでしょう)


 先日、(島根県美濃郡美都町立)東仙道(ひがっせんどー)小中学校時代の同窓会が益田市であり出席しました。還暦を期に『召集令状』が発令されたのです。
 私たちの故郷は
≪中国山地に孤立した小さな寒村≫でした。現在は、国道191号線の整備や防災ダムの完成などにより大きく変貌しました。
(昔を偲ばせるモノはほとんどみあたりません。変わらないのはわずかに神社の一郭ぐらいでしょうか? その鎮守の森でさえ、ガキの頃ムササビ捕りによじ登った数本のシイの老大木は、枯死したのでしょうか? カミナリに撃たれたのでしょうか? それとも伐採されたでしょうか? 朽ちて苔むすその切り株だけが往時を想い起こさせます。)

 合併により、2004.11.01から益田市に編入されています。


『秘かに想いを寄せていたあの子は来るのだろうか?』
ソワソワしていたのでしょうか?
 家内も気になるらしく、私の服を選んだり、時刻表を確認したり、手土産を決めたりと数日前からあれこれと世話をやいていました。
 午前の診察を終え、軽く昼食をとり、身支度もそこそこに出立しました。タクシーでJR穂積駅まで約10分、快速電車で名古屋駅まで約20分、名古屋駅で皆への気持ちばかりの手土産を買いこみました。新幹線『のぞみ』は既に予約してありました(もっと早い便も可能でしたが)。広島駅まで2時間余りです。
 迎えに来てくれてた弟の車に乗りかえ、高速道を経由し、国道191号線に入り中国山地を横断しました。益田市街まで約2時間、午後6時過ぎには会場に無事到着しました。

(ずいぶん便利になりました。東京羽田・大阪伊丹-益田空港を結ぶジェット便も便利ですね。昔は遠回りして、小郡駅(現在の新山口駅)から山口線に乗りかえ津和野を経由して帰らねばなりませんでした)



 古里(美都)の秋雨 2006,11,(ますださんらいずネットより)田んぼに稲の刈株、石見瓦に白壁、白菜畑、落葉した柿の木、
 たくわん漬け用の大根はぜ、山裾にわずかばかりの段々畑、雨に煙る雑木山、イチョウとイチジクの黄葉、懐かしい風景です。
 私たちの時代は、わらぶき屋根の民家や納屋が大多数でした。石見瓦葺きの家は裕福な家であり目立っていました。
 **************************************************************************************************************************************************


幼年期から少年少女期への9年間をともに過ごした連中です。
 
村立東仙道小学校本校入学時は48名一クラス、小学年時に三谷・笹倉両分校から約15名が編入してきました。以来約60名2クラスがずっと一緒でした。実に濃密な関係です。今回の同窓会には、なんと26名もの多くが全国各地から駆けつけました。
 5名がすでに鬼籍に入っていますし、一家あげての離村で、親類縁者が絶えたり全国各地に散らばった結果、消息が完全に途絶えたケースも数多くあるようです。そのような事情まで考えると、連絡が取れた者の50%以上、ものすごい出席率です。
 

 会場をザーッと見渡しても、誰が誰やら見当もつきません。その多くは45年ぶりに見る顔です。まるで≪浦島太郎状態≫です。
(開宴時刻に少し遅れた関係もあり、すでに自己紹介が始まっていました。席はクジで決まっていましたが、ネームプレートも出席者名簿もありません。幹事連中は、あらかじめ出席メンバーを掌握しており、すべてわかっているのでしょう。しかし、我々はたまったもんではありません! 
計画的にイタズラしたのでしょうか?
 着席するや否や、近況報告がてらの自己紹介をさせられました。私に遅れて、AH君が駆けつけました。そして、乾杯です。

 四角に囲んで着座している出席者たちの顔を眺め渡し、わからない名前を両隣の女の子から順にザーッと聞き出しました。そこで思い出せた者もいます。お酌して各席を回りながら、向かいあっておしゃべりしている間に、昔のイメージと結びついた者もいます。しかし、名前を聞いてもおしゃべりしていても、昔の顔がどうしても呼び戻せない人もいました。また、話ている最中はわかっていたつもりでしたが、帰りの新幹線の車中で思い返しても、デジカメの画像を見返しても、はて誰だったのか??思い出せない人もいました。
 
帰宅後さっそく、セピア色にあせた写真帳を引っぱり出し、卒業集合写真と昔の名簿とを一人一人見比べ、点眼鏡で拡大し、撮ってきたデジカメの画像も参照しながら、同窓会での印象・残像とを結びつけて、やっと確認できた人もいました。

 (ところが、それでさえ数名とり違えていました。
つい先日、2ヶ月ぶりに『出席者名簿』『説明つき集合写真』が送られてきました。やっと真実が判明したのです。思わず苦笑しました。
『最新版同級生名簿&住所録』も同封されていました。(死亡と不明の約10名をのぞいた)約50名の現住所が並んでいます。全国各地に見事なほど散らばっています。また現在、故郷及びその近辺に住んでいる人達もまた、ほとんど全員がUターンのはずです)



送られてきた集合写真の一枚です。撮影したIsiKaz君が写っていません。この25人、誰が誰でしょうか? 答えは最後にあります)


 可憐な乙女たちも、紅顔の美少年たちも、すでに初老(?)です。昔の記憶と目前の現実との乖離があまりに大きすぎます。
『蕾ふくらみ花開こうとする季節』に別れ、『匂い立つ花の盛り』や『実を結び熟していった季節』をお互いに知らないのです。そして今『まさに紅葉しようとする季節』に至って、やっと再会できました。
(年輪を重ねた美しさや風格が、どの顔にもみられました。まあ、それはそれとして~)
 背の低いおやせだった子が、大きく頑丈そうに変わっていたり、大柄でおませだった子が、意外に小さかったり、中学卒業後に遅れて成長し、追い抜いたり追い抜かれりしたわけです。
 貧相だった子がサナギ(蛹)から美しい蝶に脱皮していたり、ピンクやグリーンの原色が見事に映える輝く銀髪にかわっていたり、ゴマ塩頭のもの、はげあがったもの、黒髪たっぷりに残っているもの、体が不自由なもの、
容貌や体型は大きく変わってしまいましたが、眼差しや表情、仕草、話しぶりに子供時代の名残りが多少なりとも残っていて、徐々に昔の顔と重なってきました。

 
誰もおしゃべりに夢中です。しばらく話し込んでいるうちに、すっかり≪田舎弁≫に戻っていました。≪懐かしい石見弁/益田弁/美都弁≫をこんなに多く話したのは、ずいぶん久しぶりです。




 A)皆んなー、皆んなー、カ~~マ~~、ぶっちぃー変わってしもーたのーやー!
  誰っが誰っやら、ハ~~モ~~、わかっりゃーせんわーや!
  そーゆーちゃーなんじゃが(さて、ところで)、あんったー、誰っかいのーー?
  オ~~オ~~、ヤッちゃんかいっやーー! マ~~~、懐っかっしいのーやー! 

  むっしょーに嬉っしゅーてのー、ゆんべー(昨夜)、眠れんかったんじゃーやー!
  よーによーに、帰えりんさったのー、マ~~、ゆーに(ゆっくりと)して行きんさいやー
 B)おーっきにー、おーっきにーー、ハ~~マ~~、かしいねーやー!
  そんで~、あんたーこそー、誰じゃったかいねーやー??
 
 
 C)久っしゅー(ながっしゅー)逢わんかったー、カ~~~、まめ(豆)っじゃったん?
  酒ー、ちぃーっとも進まんねー! なんぼっかしー(ほとんど)食っとら~んじゃ~ん?
  なーんしん?(どうしたの?)どっかー悪いんちゃーうん(違うん)??
 B)
いんやー、先週、学生っらーと一緒っでねー、あれっらー、若いっでっねー
  ハ~、よ~食うーわー、~、よ~飲むっわー!カ~カ~~、つられってしもーってねー
  生カキとサバの刺身と、好きっじゃっけー、そればっかーじょーに食い過ぎったんよーー
  その晩から、えずいってねー、あげっそーでねー、ハ~~、なんっかーいけんのじゃーね
  どーもそんに当ってしもーったらしーんよー、暴飲暴食したバチ(罰)っじゃろーてー
  まめ(豆)っなだけっがー、マ~~、取り柄じゃったんじゃがっねー、
  ハ~~、年っかいっねー、モ~、やれんわー、昔みっちょーに無理ー効かんっけーねー
  娘っから、ぶっちぃーきつーー、ドクター・ストップかかっとるんっよーー




 D)お医者っさんに、なりんちゃったそーじゃっねー!どうかいっねー、忙しっかるっろー?
 B)マ~~マ~~、ボ
チーボチー、やっとりゃーするいっね
 D)何科なん? リウマチ科なん! 整形外科っなん? そっりゃーええっねー
  最近、あっちらーこっちらー、痛うーってねー、ハ~~、やれんのっじゃー
  きにょー(昨日)なんかー、奥歯ー、はしってねー、ハ~~モ~~、眠れんかったんよー
  歯ーー、みん(診ん)ーー?? なしってえーー(どうして、なぜ)?...??
  カ~~~、東京の歯科医っ科大学じゃったろーー?? 


 E)マ~~マ~~、こっちー、手ー、見しってー(みせて)みんちゃいっやー!
  柔わらっかー、きれーな手ー、しちょりんさるっねーやー、ツルッツルッじゃーね~
  力っ仕事、しっちょっらんのじゃっね~! 聴診器とメスしっかー、持たんのじゃっろ~ね?

 F)気持っちーえーわー、肌も白うって、スベッスベッじゃーね!
 B)止めてーや、ヤラッシーねー! そんにーいじくりんちゃんな~や、くちゅぐったいわ~ねー
  じゃっけんどー、やっぱし、ハ~~モ~~、年っじゃいねー!
  顔っ中、シミ(班)ー、出って来ってねー、はー、もーやっれんわーね!





 G)そーじゃいっねー、ちょっぴし、オツムが、薄うーなりんちゃったかいっねー!
  貫禄あってーええーけっどー、カ~~、頭っばっかー、使い過っぎゃー、いっけんけ~ねー
 B)いんやー、頭っなんっかー、ちーっとも(少しも)、使っとりゃーせんよーねーー、
  さぞっやー大分じゃっろーってー、ぶっちぃー薄うーも、白うーも、なってしもーたーね
  娘っが、「ヴァージン・ロード歩くのー、はあーもーやれん!」ちゅーとんのよーー


 B)毛生えっグスリー(薬)、朝っめしのたんびー、呑んどるんよーー、
  ちょっぴし増ってー来たっしー、ハ~モ~~、だいぶん黒うーなったんじゃっがっねーー
 H)そっりゃーええーわー、うっちにも(私にも)教えってーや、どっこに売っとるん?
 B)きれーな髪しちょるじゃん! ツヤっツヤっじゃっしー、たっぷりあるっしーー、
  メッチャーメッチャー魅惑的じゃ~ん...!!
 H)美容院で染めって来たんよーー、あんた(皆んなの間違いだよね?)に逢うんじゃっしーー
  いけんのーん? なしってえー? おなごっしゃー(女衆、女子衆)、いけんのん...?? 
  そーーなん!、おとこっしー(男衆、男子衆)しっかー、効っかんのんねーー!?




 45年以上前の少年少女にもどって、「ニックネーム」や「○○ちゃん」で呼びあっています。
 
興奮して胸がいっぱいなのでしょう、おしゃべりに夢中です。せっかくのご馳走もノドを通らないようです。おじいちゃん、おばあちゃんになった者も多いらしく、孫やおい・めいの自慢話にまで及びます。スナップ写真を撮りあい、互いに抱きあい頬をさすりあって再会をよろこんでいます。小グループを作ってはしゃべり、別なグループを作ってまたしゃべる、時間が過ぎるのを忘れています。男も女も関係ありません。入り乱れふざけあっての無礼講です。声も上ずっています。45年ぶりの遅すぎる告白に、錯綜した恋の相関図が浮かび上がって笑えます。なつかしい「校歌斉唱」もあります。余興にカラオケも飛び出し、浮かれて踊りだす者もいます。

 あどけない幼児期から共に学び共に遊びあった
≪幼馴染みたち≫です。成長するにつれて徐々にお互いを異性として意識するようになり、慕い悩みゆれ動いた思春期を共有しています。歳月のヴェールにおおわれた遠いおぼろげな記憶でしたが、今、一コマ一コマが鮮明にフラッシュ・バックされてきました。

 
≪運命は残酷≫です。9年間を濃密にすごさせた挙げ句、傷つきやすい思春期の真っただ中で無惨に引き裂き、全国各地へ引き離しました。この60名は、運命で引き逢わされ運命にもてあそばれた青春を共にしています。その分、再会できたうれしさがより大きいのでしょう。


 (
こんなにも笑顔があふれ、こんなにも饒舌な宴会は初めてです。二度とないでしょう。興奮して眠れなかったのも、食事がノドを通らないのも、当然でしょう...)




ベビーブーム真っただ中の世代(団塊の世代)です。故郷は、≪日本一の過疎地≫とかってよばれました。超過疎化の波にのみ込まれ、出稼ぎから離村の濁流へと変わりました。当時、美都町とかけて『みとうもなあ町(格好が悪くて二度と見たくない町)』と住民たちから自嘲される悲惨な状況でした。(東仙道地区:3000人→1000人、都茂地区:→1200人、二川地区:→300人、そして美都町全体では、7500人強→2500人弱へと総人口は1/3以下に激減しました。隣の旧美濃郡匹見町はさらにひどく、7500人が1500人弱へと激減しています。老齢化率は怖ろしいほど高値です。)

 
村立東仙道小学校分校(三谷分校、笹倉分校)は3村合併後すぐに、東仙道中学校は卒業後まもなく廃校になりました。旧村民の多くが、都会へ職を求め、住み慣れた故郷を棄て、一家あげて離村しました。同級生60名は、全国各地へ散り散りになりました。≪金の卵≫ともてはやされ、集団就職などで、半数が中卒で、残りの半数が高卒で、故郷を離れて就職した時代でした。住み込みの看護婦見習いや理容師・美容師見習いになった子も多くいました。

 
里山には、≪参る人の途絶えた墓所≫が、あちこちに残されくちていきます。シダやツタが小径をかくし消していきます。コケむした墓石の消えかかった墓表がむなしく昔を偲ばせます。おおいかぶさる木々のこずえが風にざわめきしのび泣いています。

 
皆々、きっと苦労したに違いありません。他人に言えないつらい経験もあったでしょう。
 田舎から都会へ出て行って、何もわからぬままに、ひたすら耐えて頑張るしか他に選択肢はなかったのです。
≪日本経済の発展≫と共に駆けぬけ、≪経済の停滞≫と共に退く年齢になりました。子供たちも独立し、やっと一息つける時期にきています。
 
貧困と飢え、不安と希望、競争と挫折の中から、必死でがんばってやっとここまで来たのです。しかし、そのわりには報われず、ニートがあふれワーキングプアがささやかれている現在、若者たちからは冷たく非難される世代でもあります。
 そして正に今、資本主義世界では
100年に一度の経済恐慌が危惧≫されています。


何も知らなかった無邪気な昔に戻って、しばし現実を忘れているのいるのでしょうか...


 
  
現在の故郷:大きく変ってしまいました。昔を偲ばせるものはほとんど見あたりません。建物や道路はもちろんのこと、田んぼも川も
   大きく変わり、周囲の山々までもかなり変わりました。ただ、山を覆う雑木の深い緑の豊かさと空の澄んだ青さだけは昔の通りです。

 


 ********** 同窓会とは無関係ですが ***************************************************************

現在の故郷の様子を見るにつけ思う事は、村の中心部や幹線道路沿いは、国道191号線の整備や主要連絡道路の改修がなされ、立派な公共施設も数多く作られ、≪見違えるように都会化≫されています。益田市街へすぐの距離に縮まり完全に通勤圏です。美都川(益田川)は戦後何度か大洪水で氾濫しましたが、河川は拡張され護岸工事がしっかり施され昔の面影はありません。田畑は整然と区画整理がなされ、新しい住宅団地もできています。大きな工場が誘致され、周辺部からの人口集約化もなされて村の様相は一変しました。まさに≪積年の夢の実現≫でしょう。
 しかし、主要道路から一歩周辺山間部に足を踏み込めば、離村や移住によって人口は激減しています。残された廃屋は徐々に朽ちていき、田畑は荒れて原野に戻っていきます。猿やイノシシが頻繁に出没し、残された人々の生活は維持できなくなっています。


 部外者として冷静に分析するにつけ、これだけ多彩かつ大規模な公共工事です。地元負担分のツケもその維持管理費もさぞや膨大な額にのぼることでしょう? 全部がタダではありませんよ、自分たちにのしかかる負担分です。
 竹下登元首相、桜内義雄元自民党幹事長衆議院議長、細田吉蔵・博之(現自民党幹事長)親子二代、青木幹夫現自民党参議院議員会長など錚々たる政治家たちの膝元です。
 自民党官僚癒着体制お得意の経済効果を無視した地元利益誘導政策(公共工事)が最大限になされました。しかし、税金垂れ流しを延々と続られるはずがありません。≪膨大な財政赤字≫で国が滅びようとしています。公共工事関連企業への利益誘導こそが第一の目的で、その経済波及効果は微々たるもので、多くは一時的です。当初の見込みから工事費が数倍に膨れ上がろうが、効率悪く赤字が積み上がろうが、維持管理に困難を来たそうが、後はどうなろうと構わないのです。
 ダム・道路・農地整理、箱物、多くの公共工事はみな同然です。
事前に予想されたとおりですが、飛行機の発着も少なく赤字額が積み上がるばかりの益田空港(萩・石見空港)に象徴されるように、島根県は住民一人当たり税金投入額(公共工事費)日本一とかって言われたました。
 その当然の帰着です。≪財政破綻≫を噂される島根県及び益田市の現財務状況は、実際いかがなものでしょうか?


 
溝口善兵衛島根県知事は、間違いなく≪益田高校が生んだ伝説的な至高の俊才≫であり、尊敬しています。しかし、かっては大蔵省財務官として「ミスター・ドル」とも呼ばれ歴史に残る≪ドル買い≫を指揮されました。そして自民党・官僚癒着体制が延々と続いた結果、中央・地方を合わせ1100兆円にものぼる日本国の巨額財政赤字を作った責任者の一人でもあります。来年度の国家の税収見込みは約40兆円、その30倍です。(赤ん坊まで含めて国民一人当たり1000万円もの目も眩むほどの借金です。一般家庭なら3000万円~5000万円もの返済不可能な金額で、完全に破産状態です)
 いくら円高を抑えドル安を買い支えるためとはいえ異常でした。円高は国力の増加でもあるのです。赤字国債を発行してはそれでアメリカ国債を買う。すなわち日本国民から借金した金でアメリカ国民の浪費を助け、アメリカの経済バブルを助長させたのです。トヨタ、キャノンなど一部輸出企業が莫大な利益を享受しただけで、輸入企業や一般国民は被害を被り、その時に購入した巨額(50兆円?70兆円?)の米国国債は、売却することもできず不良債権化しています。ドル高時に戦略的に売却して赤字国債を減じるならまだしも、米国の御機嫌をうかがって、ニューヨーク連邦銀行の金庫に凍り漬けです。独立国とはいえません。日本国民から冨をかすめ盗って輸出企業にばらまきアメリカ合衆国に貢いだことになります。
 経済改革の掛け声とは裏腹に、赤字国債を乱発し加速度的に財務赤字を増やしました。郵政省に預けた国民の貴重な資産(郵便貯金、簡易保険)をアメリカ資本に売り渡そうとしました。溝口財務官は巡り合わせとはいえ、アメリカにおもねいた見せかけだけのペテン・小泉竹中経済改革?(日本社会破壊政策)に加担する結果となったのです。その結果は、経済財政諮問会議(高利貸し、IT産業、輸出企業などの胡散臭い政商たちと財務省の御用達学者たちばかりで構成)が主導する社会弱者を切りすて医療福祉の切りすて、教育を切りすて、国民のセーフティネットをズタズタに破壊しました。多くの国民を敗者側に転落させたばかりか、自分たちの権益や利益のみを拡大させた新自由主義≪社会道徳なき拝金主義がのさばる殺伐たる弱肉強食の格差社会≫でした。そしてまさに今、米国のバブル崩壊とともに100年に一度と言われる世界経済恐慌≫を招いてしまったのです。
 国庫の中味をみずから使い又使わせる立場から、現在は大きくその立場がかわりました。実に皮肉なことに、「面舵いっぱい、取り舵いっぱい」、破綻寸前の島根県財政の立て直しにとその舵取りが大変なことでしょう。
 
 県知事の益高後輩にあたり親子ほども年が違う若き福原慎太郎現益田市長もまた市財政健全化ではさぞや大変な舵取りでしょう?



 ********** 皆の話と記憶の断片を寄せ集めて *****************************************************



 今は亡きTanKaz君と私とは、常にライヴァルでした。
 
クラスはいつも別々でしたが、二人つるんで進学補習授業をサボり、彼の家に寄り道してはよく遊びました。ある時、そのことで各々の担任教諭からひどく叱られました。
 
生々しく≪その時の情景≫がよみがえってきました。

 TK君の思い出に話が及んで、ある女の子(TCちゃんとしておきましょう)が、話し出しました。
 「TKちゃん一人っだけ、教室に残されんちゃってーね~、うちっらー、隣の教室の机のかげで聴き耳立てとったんよ~」
 彼の担任は、潔癖症の変わり者でした。夏も冬も
糊のよく効いた真っ白いYシャツに真っ黒い三つ揃いの背広を着込んで、蝶ネクタイを締め、鎖のついた銀の懐中時計をチョッキのポケットに忍ばせていました。少々癇癪持ちです。山高帽子とステッキがよく似合いそうな、謹厳実直を絵に描いたような英国風紳士です。
 「S先生が狂いんさったんよ~、ぶっちぃー怒鳴りんさるんよ~。(TKちゃんが)ひど~うぶたれちょるらしゅーて、頭~、壁にゴツンゴツンぶっつけるよーな大きな音が聞こえって来るんよ~、殺されるんじゃーなかっろーか~と、ソッリャーソッリャー、ぶっちぃーぼいしかった(とても怖ろしかった)んよ~ね!
 まったく初耳です。TK君はそんなこと何も私にしゃべらなかったのです。

 その時、離れた別室(宿直室だったでしょうか? 狭い和室だったような)では、私も同様に、担任教諭から叱られていました。
 私の担任は、田舎のどこにでもいるような、髪も髭も身なりも気にしない気さくな人のよいオッチャン先生でした。

 「お前っらー、生徒会長と(生徒会)議長じゃっろーがーや~~!、選りに選って、二人つるんでー、毎回補習授業をサボるった~、いったいどうゆう了見かいっの~~??」いつもの温和なオッチャン先生とはまるで形相が違います。有無を言わせぬ激しい口調です。
 「お前っらーにとっちゃー、補習授業なんっか~、物足りんかっも知れんがっの~、ただの井の中のかわず(蛙)っかも知れんっしの~!」 
太い低い声です。威圧的ですが、諭すようにも聞こえます。
 「お前っらーだっけの問題じゃー、事がすまんっのよ~、皆っへー示っしもつかんけーの~、(他の皆っへ)悪い影響をぶっちぃー与えとるちゅーこっとー、ちった~考えてみんさいっや~~!」といった叱責理由です。

              2006.3.25 花桃 早春のたぎる血潮を

「先生っらーも、皆んな手弁当のボランティアなんじゃっしや~、悪いっと思わんのかいっの~~!、カツカツ嫌々の連中も、もっちぃーおるっじゃろうしや~!」
 
「(あれっらーが入試に)落ちよったら、お前っらーの責任じゃっぞ~、去年なんっか~、M高にもえろー落ちとるっけーのー、そねーなんに、お前っらーと来た日っにゃ~(お前達は)、つるんでサボっりゃーがってや~、ぶっちぃーぶっちぃー失礼じゃろーがっや~!」
「性根~入れっ替えて、ケツの穴でも洗じて(反省して)みんかいっや~!」 さすが敵を攻め落とす勘処を心得てござりまするわい。

 一方、TK君の場合は、
 
「お前っが、主謀者じゃろーがっや~! SYを巻き込んで、サボらせったんじゃーろうっが~!」とでも、濡れ衣を着せられ、一方的に責められたのでしょうか? 
 あるいは普段からS先生とは馬があわず心底反抗して、それともうっかり口をすべらせて、
 
「家で、ずーっとズーッと先まで予習しちょりますっけ~、(あっがーな、しょーもなー補習授業なんて~!)」とでも言い返したのでしょうか?
 常に自信に充ち満ちた彼の日頃の態度や先生方をタジタジにさせる利発さ(彼は開学以来最高の秀才?と噂されていました)が、S先生を小バカにしているように誤解させたのかも知れません。
 思春期です。何せ難しい
≪春の嵐の季節≫でしたし、事実そうだったかもしれません。
 彼の何かがS先生の琴線に触れ、より激しい怒りを買ったのでしょう。
(もしかしたら、理性で抑圧されていたS先生の心の奥底には、TK君生来の人なつっこい快活さや天賦の才能へのどうにも抑えがたい嫉妬にも似たどす黒い情動が渦巻いていたのかも知れません?)

 私は、ずる賢く立ち回りました。内心では
『補習授業なんぞ~、まったく時間の無駄っじゃがなあ~』と思っていましたが、表面上は素直にあやまりました。体罰は全然受けなかったように記憶しています。


 
TK君が亡き今となっては、私だけが知っている≪事の顛末≫です。おそらくこの時の話でしょう。  



     
                            花梅、早春の燃ゆる想いを 

 それとは別に、
クラスの男子生徒全員で≪音楽の授業をボイコット≫して、神社の裏山に逃げ登り、≪新任の女性音楽教師をからかって泣かせた事件≫がありました。
 田舎では周囲から浮き上がるように目立った存在でした。都会風に洗練され、オシャレで若くて美しい女先生への子供っぽい反発でした。また、何かにつけて音楽教師の側に立つ、おませで精神的に優勢で、口ではとても適わない
≪小憎らしい女生徒側への反発≫でもありました。
 
「あんたっらー、ふけったら~し~いっらんよ~、先生へ言い付けっちゃるけーねー!」
 
「そーかい、そーかい、わしらー屁のカッパじゃっけーのーやー、やれるもんなら、やってみーやー!」
 売り言葉に買い言葉、女子生徒側と男子生徒側とのいつもの
たわいない口喧嘩が始まりです。

 
オシャレや美しさに反発したなどとは口が裂けても言えません。女生徒側との口喧嘩が切っ掛けなどとは、まして言えません。それらしい反抗理由をこじつけねばなりません。『音楽なんて甘っチョロイものやっておれるか』と言うのが、我々男子生徒側が口裏をあわせた表向きの反抗理由です。きっと≪手の届かない憧れ≫への裏返しだったのでしょう。
 皆んな床に手をついて正座で並ばされ、担任の男先生からこっぴどく叱られました。
ムチ(女子竹の根っ子で作られ、黒板指しに使われます。節がつんでいて、細長くてよくしなります)で打たれた背中が青アザとなって腫れ上がり、痛みでシャツを着れないほどの体罰をくらいました。級長の私は、皆を扇動したという罪状を付け加えられ、特別余分に叱られました。

 そんな
ほろ甘苦い佳き?思い出≫もあります。
 しかし、それは私たちのクラスだけの話です。TK君とは無関係のはずです。
 中学2年生の時だったでしょうか。1年生の時だったかも知れません。


     
       
                   2007.4.1 山桜が満開 イヌと散歩途中で
  
 
私は、TK君にほとんどいつも僅差で負けていました。彼はT大法学部へでも余裕で進むものと思っていました。しかし、彼の選択は意外でした。
 
近所でもあった村で唯一人の医師O先生の影響もあったのかも知れません。彼は医師を選び、志望通りN大学医学部へストレートで進学しました。

 (私は人生に迷い、様々な職業・土地を転々とし暗い長い迷路を散々彷徨ったあげく、結局、彼と同じ医学の途に光明を見いだしました)

 天は彼に二物も三物も与え賜うたのです。スポーツに勉学にと文武両道に秀で、しかもハンサムです。明朗快活な性格と鋭敏な頭脳とで、
新進の産婦人科医として将来を嘱望されていました。しかし、30歳そこそこ新婚まもなく、原因不明の脳炎に突然冒され(今にして思えばヘルペス脳炎でしょうか?)、母校N大学病院に入院したまま二度と意識が戻ることなく、かわいい奥さんと愛息を残して、あっけなく逝ってしまいました。
             

 現在、彼の実家は取り壊されて跡形もありません。その後の消息が気になっていました。
 帰省した折々、お墓参りがてら何度かお見舞いに立ち寄りました。彼は末っ子でした。父上は亡くなり、母上が大きな家に独りで住んでおられましたが、当時すでにかなりのご高齢でした。
すっかり気落ちされた様子が痛々しく、慰めの言葉に窮して共に涙するばかりでした。
 今般、RF君の話では、母上は姉上(教師でした)のもと、静岡県にてご健在なよし、また薬剤師の奥さんは再婚され、ご子息はT大を卒業され立派な社会人に成長されたそうです。安心しました。


 **************************************************************************************************



 数年前には、心臓発作とガンで、3名が立て続けに亡くなりました。
 
その一人SasKinさんは、座ったまま、うたた寝しているように、突然逝ったそうです。
 もう一人のSumIsa君は、ごくたまに私が帰省すると、いつも自宅に呼んでくれ、奥さん手作りの家庭料理をご馳走してくれました。周りを走り回っていたあのイタズラ坊主が、立派な歯医者さんになって、地元で開業されています。
 もう一人のTabBun君も、健康そうでしたが......



 うたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし...と申しますが、
    人生なんて、つらく、はかなく、哀しく、

              ...それでいて楽しいものですね....





  J)ええーみやげ(土産)っまでもろーて、悪かったねー!(気を遣ってもらってありがとうね!)
  ちらー(私達は)、気ー利かんけーねー、何ーーんも、持っちゃー来んかったんよーー
 B)いんやっのーー、カ~~、気持ちだけじゃっけーねー、マ~~、気ーせんといってーやー

 K)何時
っまでー、こっちー、おるーーん?
 L)ハ~~モ~~、あしったー(明日)、いぬるんねーー?(帰って行くん?)
  マ~~、ぶちぃーせわしーねーー! ゆーに(悠に)して行きんちゃったらえーんに
 J)体ー、豆にー、しんちゃいーねー
  まったー、すぐっとー、遊そびー帰りんちゃいっやー
  次の同窓会も来るっろーー? すぐっにーするけーねーまた集まろーやー
 K)うちらー、暇じゃっけーねー、すぐっとー飛んで来るっけーねーやー
 B)あんたっらーこそ(貴女達こそ)、うちんたかー(私の家へ)遊びん来んちゃいっやーー



 次はいつ逢えるかわかりません。もう二度と会えないかも知れません。
 
楽しい宴も瞬く間にお開きになってしまいました。



 17人が二次会につきあいました。駅前裏通りネオン街のとあるバーです。
 カラオケにダンスにと盛り上がっていましたが、名残りをおしんで引き上げました。




 当夜は、そこに田舎の母と弟と久しぶりに3人で泊まりました。
 翌日、あわただしく帰宅し、翌々日からは現実に戻って普段通りに診療していました。


 
幹事の労をとってもらった皆には感謝感謝の気持ちです。(幹事の皆は、口で大変だったと言ってる割には、一番楽しそうにはしゃいでいましたが)とにかくご苦労さんでした。
 また次の機会がありますよう、楽しみに待ちましょう。


                                      2008,10,25 益田市三好屋旅館にて、 




******** あとがき **************************


       フルネームは書けません。すべて旧姓のイニシャルです。 (例)仙道太郎→SenTar 
     

 我々45年後の変わり様をご覧いただけたでしょうか? わかりましたか、何人当たりましたか?
 写真集には小学校入学直後のもあります。それからは半世紀以上、約55年がたっていますしね。
**************************************************************************************************
 私の偏見と独断でアップしました。個人情報云々と騒々しいご時世ですが、問題ないでしょう。
      **************************************************************************************************

 還暦同窓会に出席できた人は幸せでした。たのしかったですね。またぜひ逢いたいものです。
 あいにく都合わるく出席できなかった人も、何となく二の足を踏んだ人もいるでしょう。連絡がどうしても取れなかった人もかなり多かったようです。次の機会にはぜひ逢いたいものです。

 記憶は定かではありません。皆の話や記憶の断片を寄せ集め、想像をふくらませ、文章をつむいでいきました。だいたい真実のはずですが、誇張や省略、想い違いもあるかも知れません。
 
私中心の思い出話に片寄ってしまったことは否めません。皆さんの追加コメントに期待しましょう。
 また、掲載写真は、私のカメラに入っていたモノがほとんです。取りあえずアップしました。
 皆々写真を撮りまくっていましたね。きっとより素敵な写真も多くあるでしょう。追加してください。


 文中の『益田弁/美都弁』もかなりあやしいです。『我が家の石見弁
は広島弁、山口弁、関西弁、東京弁、名古屋弁、岐阜弁などと混ざって、『正調・石見弁/益田弁』からかけ離れてきているのでしょう。家族の皆、故郷を離れて30年以上経っていますので、日常会話は完全に標準語化しています。また、皆がしゃべっていた『益田弁/美都弁』にしても、昔のそれではなくなっているのでしょう?、なにせ45年ぶりにしゃべくりからかした(名古屋弁との合成?)懐かしい『美都弁/東仙道弁』ですしね。

 
写真の追加や削除の要望、ミニミニ情報、コメントの追加・訂正、近況報告、感想などがありましたら、メールでお寄せください。もちろん郵送でも結構です。スキャナーで簡単に取り込めます。
 


→mail


        ≪小中学校9年間をともに過ごした60名の青春(写真集)≫
        ≪昭和戦後歌謡史とともに(団塊の青春)≫
        ≪故郷の医療を支えていただいた老先生の引退≫      


石見(美都)の秋 2006,11,(ますださんらいずネットより借用しました。普通の民家?秦佐八郎記念館の一部?でしょうか)
 美都町都茂、ありふれた民家風切り妻の石見瓦ぶき屋根、白壁と板壁、みごとな紅葉、そして背景の雑木山の深い緑との対比、懐かしい石見地方独特の風景です。
 また 国道191号線の広島県境辺り、匹見峡(三段峡)辺りはすでに紅黄葉がきれいに色づき始めていました。2008,10,26




                斎藤リウマチ科内科整形外科
                
患者さん向けのやさしい医療情報 
             なつかしい石見弁(益田弁/美都弁)一覧表
             マイベランダガーデンへようこそ

美濃郡美都町、美濃郡、美都町、還暦同窓会、還暦クラス会、45年ぶりの同窓会、45年ぶりのクラス会、45年目の同窓会、45年目のクラス会、東仙道、東仙道の思い出、東仙道村立笹倉分校、東仙道村立三谷分校、美都町立東仙道小学校、美都町立東仙道中学校、東仙道小中学校、東仙道小学校、東仙道中学校、東仙道中学校の思い出、美都町都茂、都茂中学校、美都町立都茂中学校、美都町立丸茂小学校、都茂中学校の思い出、二川中学校、美都町立葛籠小学校、美都町二川、美都町立二川中学校、団塊の世代、団塊の早春、団塊の青春、貧困と飢餓、貧困と飢えと青春、競争と希望の世代、高度経済成長、集団就職、金の卵、住み込み看護婦見習い、60人の同級生、120の瞳、大学紛争、所得倍増計画、列島改造論、日本一過疎の村、日本一の過疎地、過疎化、離村、一家あげての離村、出稼ぎ、四ツ山、四ツ山城趾、都茂、丸茂、二川、宇津川、匹見峡、匹見、石見神楽、美都川、益田川、仙道、三谷、久原、朝倉、下都茂、蛇の久保、久保坂、中倉、生角、笹倉、国道191号線、公共投資、公共工事、四ツ山、四ツ山城趾、秦佐八郎、美都温泉、都茂鉱山、中井錦糸工業、三段峡、匹見温泉、久々茂、豊川、馬谷、益田市、石見交通、広益線、ホタルの里、美都メロン、定年退職、益田日赤病院、三好屋旅館、島田旅館、とらや旅館、きぬや、かじか荘、美都弁、匹見弁、益田弁、萩石見飛行場、石見萩飛行場、高津川、鵜飼、

inserted by FC2 system